今週のみことば
今週のみことば
2021年 2月21日(日)
《今週のみことば》
「おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」 Ⅰサムエル14:6
1/31、2/7、2/14と信仰によって戦った勇者にスポットを当てて来ました。今日も信仰の器として名を残した人物に目を向けます。その人物とはヨナタンです。ヨナタンはイスラエル初代の王サウルの息子です。イスラエルとペリシテの戦いにおいてイスラエルが劣勢の中、ヨナタンと彼の道具持ちの2人はペリシテに戦いを挑みました。たった2人で戦いに出るのは無謀です。しかし神さまが戦いの前面に立っておられるなら、人数の大小には関係ないと言って戦いに出て行きました。このヨナタンの姿勢から、神さまを信頼して問題課題に立ち向かうことの大切さを学びます。もちろん、無謀なことをしなさいと言っているわけではありません。祈りの中で正しい判断をしなければいけないと思いますが、判断するときに自分の手の中にあるものだけでなく、神さまを意識することを忘れないようにしたいと思います。目に見える数や力に頼る以上に、神さまへの信頼をもって問題課題に立ち向かう姿勢を身に着けたいと願います。神さまへの信仰によって、今週の歩みを乗り越えましょう。
2021年 2月14日(日)
《今週のみことば》
「すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。…剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。」 Ⅰサムエル17:46,47
イスラエルに攻め入ってきたペリシテ軍の巨人ゴリヤテと少年ダビデの戦いは、旧約聖書の中ではよく知られている記事です。ゴリヤテは身長が約2.8mもある巨人でしたが、ダビデは一人でゴリヤテに勇敢に立ち向かいました。ゴリヤテは剣と槍と投げ槍を持ってダビデに戦いを挑みました。一方ダビデの戦いの道具は杖と滑らかな5つの石と投石袋です。およそ戦場で戦う武器には思えないのですが、これが神さまの用意してくださった最強の武器となったのです。ダビデは羊飼いでした。杖と石と投石袋は羊飼いが獣から羊を守るための大切な道具で、いつも使い慣れているものでした。そしてもう一つ大切な武器を持っていました。それは「この戦いは主の戦いだ」という神さまへの信仰です。神さまは羊飼いという日常の場でダビデを訓練し、この日(ゴリヤテとの戦い)のために備えて来られたのです。ダビデは剣や槍ではなく、今自分の手の中にある「杖」「石」「投石袋」「信仰」という道具を用いて戦いに挑みました。結果はダビデの投げた石がゴリヤテの額に食い込み、ゴリヤテは倒れました。剣や槍がなくても戦いに勝てるのです。戦いのために必要な道具は、すでに私たちの手の中にあります。それを信仰をもって用いましょう。
2021年 2月 7日(日)
《今週のみことば》
「ダビデは神に伺った。…ダビデが再び神に伺うと、神は彼に仰せられた。…ダビデは神が彼に命じられたとおりにした。」 Ⅰ歴代誌14:10,14,16
ダビデとペリシテ人の2回に亘る戦いがⅠ歴代誌14章に記されています。最初、ペリシテ人が攻めてきたとき、ダビデは神さまに戦いに上るべきかどうか伺いました。すると神さまは「上れ」と仰り、ダビデはその声に従い勝利を治めました。その後、再びペリシテ人が攻めて来たとき、ダビデは再び神さまに伺いました。すると今度は「上るな」と前回とは違う答えが返って来て、ダビデは今度も神さまの指示に従い勝利を治めました。1回目と2回目の戦い方を変えたのです。戦い方を変えることはそんなに簡単なことではありません。とても勇気のいることです。私たちは何かを変えることに恐れを覚えます。前例を踏襲する方がリスクは少なく安全に思えます。そうした中で一回一回神さまに伺ったダビデの姿勢には倣うべき点が多くあります。1回目と2回目の戦い方が違うことを神さまの視点から見ると、神さまは戦いのための引き出しをたくさん持っておられるということです。神さまの引き出しを開く鍵は、私たちの信仰と従順にあります。神さまに聞き従う心を持って、神さまの引き出しをたくさん開いて行きましょう。そこにはその都度必要な助けが備えられています。
2021年 1月31日(日)
《今週のみことば》
「ヨシャファテは恐れた。そして心に決めて主を求め、ユダの全土に断食を呼びかけた。」 Ⅱ歴代誌20:3
突然の危機に直面したとき、どうしたらよいのでしょうか。南ユダの第4代目の王であるヨシャファテが連合軍の侵攻に遭ったとき、王は非常に恐れました。「私たちの神よ。彼らをさばいてくださらないのですか。攻めて来るこの大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのか分かりません。ただ、あなたに目を注ぐのみです。」と、とても太刀打ちできるような相手ではなく、どうして良いのか分からないと窮状を訴えています。私たちの毎日の営みの中でも「どうしたらよいのか分からない」ことが起こり得ます。ヨシャファテはどうしたらよいのか分からない中で、神さまに目を注ぎ、心に決めて主を求めたのです。神さまに祈り、助けを仰いだのです。この姿に私たちも倣いたいと思います。目の前が真っ暗でも、祈ることができます。祈りの扉はどんなときにも閉じられることはありません。私たちが祈り求めるなら、神さまは私たちの祈りに答えて最善の道を用意してくださいます。
2021年 1月24日(日)
《今週のみことば》
「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」 エペソ4:1,3
私たちのからだは各器官から成っています。同じように教会は信仰者一人一人が各器官となってキリストに繋がって成り立っています。ですから教会はキリストのからだだと言われます。体の器官がバラバラだったら健康が維持されないように、信仰者がバラバラだったらキリストのからだである教会は機能しなくなります。信仰者の中に平和と調和が保たれているときに教会は健康な状態にあります。教会の健康は人間的な努力によって作られるものではなく、聖霊なる神さまによって作られるものです。それゆえに教会が健康であるために、「御霊による一致を熱心に求める」ことが大切です。エペソ4:1-3には、「御霊による一致」を可能にさせる5つの徳が記されています。謙遜、柔和、寛容、忍耐、平和です。どれもが私たちに必要なものばかりで、御霊はこれらを賜物として私たちに与えてくださるのです。与えられた謙遜、柔和、寛容、忍耐、平和という道具を用いて、教会の一致を熱心に保って行きましょう。
2021年 1月17日(日)
《今週のみことば》
「主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた。」 ルカ7:13
今日は舘野師によるメッセージでした。一人息子を亡くしたやもめにイエスさまが「泣かなくてもよい」と声をかけてくださった場面を説き明かしてくださいました。寡婦(やもめ)となった女性にとって、生きる望みは愛する一人息子でした。しかしその息子が死んでしまったのです。イエスさまは悲しみと絶望のどん底に落とされた母親に向かって「泣かなくてもよい」と言われ、棺に触れて死んだ息子を蘇らせました。悲しむ者にイエスさまご自身が近づいて、その悲しみを担ってくださったのです。イエスさまは、倒れうずくまる者に自ら近づいてくださるお方です。今、痛み悲しむ人がいますか? その人にイエスさまは近づいて助けてくださいます。イエスさまは神さまの権威によって息子を蘇らせ、母親のもとに返されました。そこには、死を克服し復活を約束してくだったイエスさまの恵みがあるのです。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21:3,4)。これが、この母親に、そして今悲しむ者に与えられた復活の希望です。
2021年 1月10日(日)
《今週のみことば》
「この国のすべての民よ、強くあれ。…わたしがあなたがたとともにいるからだ。」 ハガイ2:4
今年の教会目標「祝福の扉を拓く」をもう少し掘り下げてみましょう。ハガイがイスラエルの民に神殿再建工事の再開を促した時代は決して潤っていた時代ではなく、人材も資材も資金もなく厳しい時代でした。それもそのはずバビロン捕囚から帰還して神殿再建に取りかかったものの工事は中断したままの状況ですから、とても希望が持てる状況ではありませんでした。まさに希望を見つけ難い2021年の出発と同じ状況です。当時のイスラエルの民も今の私たちも、一歩前に踏み出すために力強い励ましが必要です。その必要に神さまは答えてくださり、指導者ゼルバベル、大祭司ヨシュア、そしてすべての国民に「強くあれ、強くあれ、強くあれ」と力強いメッセージを送ってくださいました。「強くあれ」と命じてくださる根拠は「わたしがあなたがたとともにいる」という神さまの同行にあるのです。神さまが私たちと共に歩んでくださるので、今年も力強く生きて行きたいと思います。感染症との戦いだけではありません。教会の将来を展望する中でいくつかの課題が見えて来ます。個人の歩みにおいても問題はたくさんあるでしょう。でも主がともにいて「強くあれ」と励ましてくださるので大丈夫です。主の励ましを得て、一歩を踏み出しましょう。
2021年 1月 3日(日)
《今週のみことば》
「さあ、あなたがたは今日から後のことをよく考えよ。主の神殿の基が据えられた日から後のことをよく考えよ。」 ハガイ2:18
2021年の教会標語はハガイ2:18,19より「祝福の扉を拓く」としました。このみことばに導かれた理由はハガイが活動した紀元前520年頃のイスラエルの状況と今の教会が置かれている状況が似ているからです。当時のイスラエルの人たちはバビロン捕囚からエルサレムに帰還し、壊れた神殿の再建に取りかかっていました。しかし途中で邪魔が入り工事は十数年間中断してしまいました。その間、民の士気は下がり、目標が霞む中でハガイはもう一度民を励まし、工事の再開に向かわせようとしたのです。2020年の教会は、コロナの影響で多くの計画が中止や延期に追い込まれました。果たして2021年の教会はどのようになるのだろうかと先が見通せない中で、主は「今日から後のことをよく考えよ」と語られたのです。2021年は昨年の焼き直しではなく、ここは一旦立ち止まり、これから先の教会の在り方を考える機会にすることが望ましいと示されました。そうするなら「今日から後、わたしは祝福する」(ハガイ2:19)という約束を握ることができるのです。今年は、将来に向けて立ち止まり、考える一年とします。
2021年 1月 1日(金)
《今週のみことば》
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」 ヘブル12:2
主にあって2021年の幕開けを喜び、御名を賛美します。今年も新型コロナウイルスの影響は続き、長引く戦いにストレスが溜まっている人がいるかもしれません。特に医療従事者の方々のためには神さまの守りを切に祈らされます。明るい材料を見つけにくい2021年の出発ですが、冒頭のみことばに励ましを頂きたいと思います。聖書はイエスさまから目を離さないで歩むように勧めています。なぜでしょうか。それは、イエスさまは十字架において人が味わうすべての苦悩を経験されたお方だからです。人の罪の身代わりになること、同胞からの迫害、人々からの虐げや反抗、弟子の裏切りなど、あらゆる苦悩を経験されたお方なので、試みられている私たちの気持ちを知ってくださり、支えてくださるのです。昨年の元旦にまさか感染症と戦う一年になるとは思っていませんでした。同じように今年どのような年になるのか誰もわかりません。わかっているのは、私たちと一緒に歩んでくださるイエスさまがおられるということだけです。でも、それがわかれば十分なのです。今年もイエスさまから目を離さないで歩んで行きたいと祈る者です。
2020年12月27日(日)
《今週のみことば》
「人々はあなたの豊かないつくしみの思い出をあふれるばかりに語り あなたの義を高らかに歌います。」 詩篇145:7
2020年最後の礼拝を迎えました。今年は新型コロナウイルスの影響で、例年とは違う一年となりましたが、年を締め括るところまで歩んで来ることができ感謝いたします。経験したことのない感染症との戦いにより、社会全体が大変な中に置かれています。教会もまたしかりです。また私たち一人一人の2020年の歩みを振り返っても、実にたくさんの課題や困難、大変な事々がたくさんあったのではないでしょうか。困難や大変なことだけを見ていると、「神さまがいるならどうして…」と不満や不平が口をついて出てしまいます。そんなとき「もし神さまがいなかったなら…」と視点を変えてみたらどうでしょうか。もし神さまがこの世から手を引かれたなら、もし神さまが私たちを見捨ててしまわれたなら、今頃世の中は、また私たちはどうなっているのだろうか…。そのように視点を変えてみたら、困難な中にも実に多くの神さまの助けと恵みがあったことに気づくはずです。一年の歩みを「あなたの豊かないつくしみの思い出」に代えて、神さまに感謝して締め括りたいと思います。
2020年12月20日(日)
《今週のみことば》
「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」 ルカ2:20
本日は待降節第四主日礼拝をクリスマスのお祝いを兼ねたクリスマス賛美礼拝としてささげました。キリストの誕生を最初に知らされたのは羊飼いたちでした。当時羊飼いたちは貧しく社会的に弱い立場に置かれていました。そうした最下層の人たちに救い主誕生のニュースが真っ先に伝えられたのです。弱く貧しい者を顧みてくださるイエスさまにふさわしい誕生ではないでしょうか。ニュースを聞いた羊飼いたちはすぐにベツレヘムに出かけて行き、飼葉桶に寝ている赤ちゃんを捜し当てます。羊飼いたちは赤ちゃんを目の当たりにし、御使いが話した通りだったので、神をあがめ賛美しながら帰って行ったのです。実は誕生のニュースが伝えられたとき、天で大賛美が沸き起こりました。その天での賛美は地に降り注ぎ、羊飼いたちの上に臨み、彼らは神を賛美する者に変えられて帰路につきました。クリスマスは天での賛美と地上での賛美に包まれた出来事で、救い主の誕生に出会ったすべての者にこの賛美の恵みが注がれるのです。今もイエスさまを救い主として信じる者に賛美の恵みは注がれ、それが毎週の礼拝の賛美に繋がっています。礼拝でささげる賛美の恵みが今週の歩みを支えてくださいますように祈っています。
2020年12月13日(日)
《今週のみことば》
「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」 ヨハネの黙示録5:13
クリスマスの時期になるとヘンデルの「メサイア」の耳にすることがあります。特にハレルヤコーラスは有名ですが、日本ではまだまだ一般的ではないかもしれません。メサイアは「アーメンコーラス」で締め括られますが、その前の曲番53で歌われているのが冒頭の聖書のことばです(https://www.youtube.com/watch?v=jS2osOLEe0U)。子羊とは救い主イエス・キリストで、この方は賛美を受けるにふさわしい方です。教会では賛美歌を歌いますが、なぜ賛美歌を歌うのでしょうか。それは、キリストは私たちの罪を贖ってくださった救い主であり、私たちを罪の世界(滅びの世界)から救い出してくださるためにお生まれになりました。今も主の主、王の王としてすべてを治めておられるお方です。この方に力と富と知恵と勢いと誉れと栄光が帰せられており、それゆえに私たちはキリストをほめたたえるのです。来る主の日(12/20)はクリスマス礼拝です。教会のクリスマス礼拝でご一緒にキリストをほめたたえてみませんか。
2020年12月 6日(日)
《今週のみことば》
「すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。」 ルカ1:64
クリスマスを待ち望む待降節(アドベント)の中を歩んでいます。今日は待降節の第二回目の日曜日です。クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする日ですが、キリストの道備えをするために生まれたバプテスマのヨハネの誕生も興味深いです。ヨハネの父ザカリヤは高齢になっていたのですが、御使いが現れザカリヤ夫婦に子どもが与えられると予告します。しかしザカリヤはこの予告に戸惑い、事態を受け入れることができませんでした。その結果、ザカリヤの口は子どもが生まれるまできけなくなってしまいました。時が満ち、ザカリヤ夫婦に子どもが誕生し、名をヨハネと付けた途端、閉じられた口が解け、その口をもって神を賛美したのです。今、私たちは自由に語ることができます。口は解かれています。解かれた口で何を語ったらよいでしょうか。私たちの開かれた口で神さまを賛美することができたら幸いです。人を励まし勇気づけることばを語ることができたら感謝です。神さまは私たちに神さまを賛美し、人を建て上げる口を与えて下さったのです。解かれたあなたの口で神さまを賛美することができますようにお祈りします。
2020年11月29日(日)
《今週のみことば》
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」 ルカ5:31,32
日本キャンパス・クルセード・フォー・クライストの森山剛師をお迎えして、友人が中風の人をイエスさまの前に連れて来た箇所から礼拝メッセージを頂きました。友だちを何とかしてイエスさまのところに連れて行きたいという熱意が語られました。私たちはそのような熱意をもって人々に福音を届けているだろうかと探られました。今の時代もイエスさまの救いを待ち望んでいる人たちがいます。その方々をイエスさまのもとにお連れする働きをしたいと願います。イエスさまは病める者を招いておられます。病とは単に心身の病だけを指しているのではありません。人間が罪によって神さまから離れてしまった霊的な痛みを抱える者もイエスさまの招きの対象です。否、そのような罪による霊的痛みを抱えた者こそ、真っ先に招かれているのです。霊的な痛みは私たちの人生から喜びや感謝を奪い、生きる意味を見失わせてしまい、恐れと不安によって人生を縛ってしまいます。もしそのような方がおられたら、イエスさまが救ってくださいますから、イエスさまの救いを求めてください。たましいの救いを得ることができますようにお祈りしています。
2020年11月22日(日)
《今週のみことば》
「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。」 ローマ10:14,15
今日は教団から派遣されている宣教師と宣教地を覚えて礼拝をささげる世界宣教礼拝でした。イエスさまの福音を海外の人たちに伝えるのが宣教師です。言語、文化、気候、食生活など多くの点で日本とは違う国で福音を伝えることは本当に大変です。それを神さまから与えられた使命として受け止め、海外で奉仕している宣教師方のために祈り、支えて行きたいと願います。イエスさまのことを伝えることは、国内外問わず必要なことであり、そのためにクリスチャンは存在しています。昨今、宗教に対して耳を閉ざす方が多いのでしょうか、なかなか福音が伝わって行かないという話を聞きます。聞いてくれる人が本当にいないのでしょうか。いや、いると思います。伝え方に問題があるのかもしれません。いずれにせよ聞きたいと願っている方がいるなら、伝えなければいけないです。もし伝えることを止めてしまったら、どうやって聞くのでしょうか。伝える人がいて聞く人がいる。海外の宣教師も国内にいるクリスチャンも聞く人がいる以上、宣べ伝えなければいけないと思っています。
2020年11月15日(日)
《今週のみことば》
「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」 詩篇32:1,2
幸せな人生とはどのような人生だと思いますか。おそらくその答えは一人一人違うでしょうが、答えの一つに聖書がいう幸いを加えてみませんか。聖書が幸いを述べるとき、必ず出て来るテーマが罪です。聖書が言う罪は的を外すとか道を踏み外すという意味で、神さまを私たちの人生から締め出してしまうことです。神さまを私たちの人生から締め出し、自分が中心に座ることで自己中心の世界が生まれます。そこから様々な悪や咎が生じ、それは人を傷つけ悲しませることになります。もとより私たちはみな神さまから離れてしまった罪人です。しかし自分が罪人であることを知り、神さまに罪を告白するなら神さまは赦してくださいます。聖書の神さまは赦しの神さまであり、その赦しは徹底したもので、私たちの過去の罪や悪や咎は神さまの記憶から完全に消し去られ、まっさらな者とされて歩むことができるのです。このように罪を赦された者が幸いな者であり、神さまに赦されたことを感謝して歩む人生が幸いな人生なのです。この幸いを求めてみませんか。そこには赦されたことへの感謝と喜びが用意されています。
2020年11月 8日(日)
《今週のみことば》
「これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。」 使徒の働き10:34,35
神さまは歴史を通してご自分を啓示しておられます。特に歴史の転換点では神さまの特別な働きがあることを見ます。冒頭のみことばは、聖霊によってペテロの目が開かれ、救いがユダヤ人から異邦人へと拡大していく場面を表しています。神の救いはユダヤ人に与えられた固有のものだと思っていたペテロにとり、異邦人にも伝えられることは容易には受け入れがたいことでした。しかし、神さまのご計画はペテロの考えとは違い、ユダヤ人から始まりすべての人へと福音が宣べ伝えられることでした。神さまは異邦人伝道という新しい扉を開かれたのです。その開かれた扉に踏み入ることができるかできないか、その違いは大きいです。ペテロは異邦人伝道を神さまが開かれた扉として受け止めました。私たちはどうでしょうか。神さまが開かれる扉に対して、どのような態度を取ろうとしているのでしょうか。もし新しい扉が開かれるのなら、私はその扉の向こうに何があるのか見たいと思います。開かれる扉の向こうに入っていくことができるように祈ります。
2020年11月 1日(日)
《今週のみことば》
「ヤコブは息子たちに命じ終えると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。」 創世記49:33
今日は召天者記念礼拝でした。先に天に召された愛する方々を偲びつつ、そのご生涯に注がれた神さまの恵みに対して感謝の礼拝をささげました。一人の人が神さまからいのちを授かり、地上で何十年かの時間を過ごし、死をもって神さまの御許(天国)に帰って行く、これがキリスト教の死生観です。誕生から死に至るまでの人生に神さまが共におられ、守り導かれることを自覚的に知っているか否か、その違いは大きいです。その違いが人生の評価にも表れてきます。人生の成功をこの世の指標で計ることも良いかもしれませんが、神さまと共に歩んだかどうかという指標で計ることも幸いではないでしょうか。否後者にこそ意味があると思うのです。冒頭のことばは、旧約聖書に登場するヤコブの死の直前の様子を描いていますが、ヤコブの人生はその誕生から死に至るまで本当に波乱万丈の生涯でした(詳しくは創世記をご覧ください)。数多くの失敗がありましたが、一つだけ確かなことは、神さまはヤコブと共に歩んでくださったという事実です。その事実のゆえに、一人の人の生涯は尊いのです。召された方々を偲ぶと共に、神さまと共に歩む尊さを一人でも多くの方が知ることができますようにお祈りします。
2020年10月25日(日)
《今週のみことば》
「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」 Ⅰコリント9:23
イエスさまのことを一人でも多くの人に伝えたい。そのためにパウロは何でもすると言っています。イエスさまを伝えるための間口を広げ、多様な人の必要に応えようとするパウロの篤い思いを感じます。パウロの宣教の特色は、どんな困難があってもイエスさまを伝えるという目的から全くブレないことです。筋が一本通っています。筋の強さを見ると、一見融通の利かない人に見えるかもしれませんが、実はとても柔軟な人です。ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、弱い人には弱い人になり、すべての人にすべてとなって自分を相手に合わせて関係を作っていきます。どうして自分を相手に合わせるのかというと、冒頭のみことばのように自分も福音の恵みをともに受けるためです。教会も皆さんにイエスさまのことを伝えたいです。それは一人一人に注がれている神さまの恵みをともに味わいたいからです。教会の敷居を下げ、間口を広げて、皆さまのおいでをお待ちしています。
2020年10月18日(日)
《今週のみことば》
「あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました。私の粗布を解き喜びをまとわせてくださいました。」 詩篇30:11
人生山あり谷ありとは良く言ったもので、いつも波に翻弄されているのが私たちの生涯です。山を順調なときとすれば、谷は不調なときと言えますが、人生は山ばかりが続くことはなく、また谷ばかりが続くこともありません。不思議なように山と谷が交互にやって来ます。もし皆さんが今山を歩んでいるなら、傲慢にならないように気を付けなければいけないでしょう。もし今谷を歩んでいるならふてくされたり、塞ぎ込まないようにしなければいけないでしょう。神さまは山であれ谷であれ、私たちが歩む人生に寄り添ってくださるお方です。特に神さまの寄り添いが欲しいと感じるときは、山より谷を歩んでいるときです。谷が深ければ深いほど、もうダメだと落ち込んでしまうでしょう。そんなときに詩篇30篇を読んでみてください。嘆きを踊りに変え、粗布を喜びに変えてくださる神さまがおられ、私たちの人生に深く関わっておられることを見るでしょう。
2020年10月11日(日)
《今週のみことば》
「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」 Ⅰコリント9:16
キリスト教会は何を伝えているのでしょうか。それはキリストです。イエス・キリストを宣べ伝えているのが教会です。イエス・キリストは私たちに罪の赦しというグッドニュース(福音)を届けるためにこの世に来られました。教会はそのキリストを一人でも多くの方に届けたいと願って活動しています。パウロはその願いに生きた伝道者で、福音宣教はどうしてもしなければならないことであると公言してはばかりません。それをしないなら「私はわざわいです」とまで言っており、強い使命感を感じます。この使命感に教会もクリスチャンも立っています。この使命感は、私の罪のために死んでくださったキリストの十字架に対する感謝から生まれています。キリストの十字架の意味を一人でも多くの方に知って頂きたいと願っています。それは、一人一人が祝福された生涯を歩むために、どうしてもしなければならないことだからです。
2020年10月 4日(日)
《今週のみことば》
「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。」 Ⅰコリント8:1,2
私たちは知識に基づいて行動しますので知識は大切です。しかし、知識を持つことで確信を得、高ぶりや人を見下すようになってしまってはいけません。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざがありますが、そうでありたいと願いながらなかなかそのようになれないものです。時に知識は人を高ぶらせてしまうようです。それに対して、愛は人を育てます。知識と愛の違いは、特に失敗した人に対しての接し方に表れてきます。知識だけで接すると、失敗の原因を指摘し責めたり批判してしまいますが、愛をもって接すると失敗の原因に理解を示し同情し励ますことができます。どちらが人を立たせるのかと言えば後者です。自分の人に対する接し方を静かに振り返ってみて、どちらが多いでしょうか。知識を持つことが悪いわけではありません。謙遜と愛をもって持てる知識を人々の祝福と建て上げのために用いていけたら幸いです。愛は人を育てる、この生き方を身に着けることができますように。
2020年 9月27日(日)
《今週のみことば》
「妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。」 Ⅰコリント7:4
Ⅰコリント7章には結婚や独身といった個人の生き方について書かれています。なぜパウロはそのような問題を扱わなければならなかったのかというと、人は性的な誘惑に弱く、不品行や姦淫といった罪に陥りやすい者であるからです。「淫らな行いを避けるために、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。」(7:2)と、夫婦間において神さまが定めてくださった性生活を送るように勧めています。そのときに大切な視点が冒頭のみことばです。夫婦はお互いに自分のからだについて権利を持っておらず、それは相手のものだと言います。自分のからだの権利は相手が持っているということは、相手の願いに自分を合わせるということです。それが夫と妻の双方でなされたら、お互いに相手の思いを尊重する麗しい関係が作られるでしょう。とかく自分の要求を通すことに必死になっている私たちに一石を投じるみことばではないでしょうか。
2020年 9月20日(日)
《今週のみことば》
「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。」 Ⅰ列王記17:16
2008年のデーターですが、神さまの存在を信じるかどうかの意識調査が世界40ヵ国を対象に行われました。日本人は、神さまはいると思う人は16.4%、いないと思う人は51.3%、いると思う時もあればいないと思う時もある人は32.2%。約84%の人は、神はいないもしくはよくわからないと答えています。それに対して聖書は、明確に神は存在し、「主は生きておられる」と言います。旧約の預言者エリヤは「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」と言い、その主が飢饉の中でツァレファテのやもめを生かしてくださったことが記されています。やもめはかめの中に一握りの粉と、壺の中のわずかな油しか持っておらず、それを息子と食べて死のうとしていました。そこにエリヤが現れ、やもめに「かめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない」と約束し、飢饉の中でやもめの家族の必要を満たしてくださいました。今も神さまは確かに生きておられ、私たちの必要を満たし、いのちを支えてくださっています。神さまの恵みは昔も今も尽きることがありません。尽きない恵みに生かされて今日も歩んで行きましょう。
2020年 9月13日(日)
《今週のみことば》
「あなたがたのからだは、…神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」 Ⅰコリント6:19,20
私たちのからだ、それはいったい誰のものなのでしょうか。勿論、それは私のものであって人のものではありません。私のからだであるのに、聖書は「もはや自分自身のものではない」と言います。では誰のものなのか?その答えが冒頭のみことばです。キリストを信じる信仰者には聖霊が宿っています。それゆえに、聖霊の宮であり、キリストの十字架という代価によって買い取られた者なのです。私たちのからだはキリストのもの、これが信仰者の人間理解です。私たちのからだがキリストのものであり、イエスさまの御心をこの世に証するために存在しているのです。信仰者の存在そのものが神の栄光の現れと言えるのですからすごいことですね。神の栄光を現す生き方は信仰者一人一人の在り方であると共に、信仰者の集まりである教会の在り方でもあります。イエスさまの願いを社会に届け、神の栄光を現す一信仰者であり、教会でありたいと願います。
2020年 9月 6日(日)
《今週のみことば》
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。」 イザヤ43:1,2
今月は「敬老の日」がありますが、教会ではひと足早く、今日ご高齢者の祝福を込めて礼拝をささげました。イザヤ書43:1-7に、2回「恐れるな」とあります。一回が冒頭のみことばで、もう一回は5節にあります。「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」年齢を重ねることは神さまの祝福なのですが、一方で健康の試みや病を背負う中で不安や恐れを抱くことがあります。そして人生の締め括りである死を迎えるとき、ある人たちには恐れがピークとなって襲いかかるかもしれません。日常の恐れであろうと死の恐れであろうと、神さまは「恐れるな」と力強く語ってくださいます。その理由は人間の罪の贖いがキリストの十字架によって成し遂げられているからであり、どんなときにも神さまがともにいて支えてくださるからです。ただ、この事実を多くの人は知りません。キリストの十字架には「恐れるな」と言われる理由が込められています。この恵みを求めて、平安な日々を過ごすことができますようにお祈りします。
2020年 8月30日(日)
《今週のみことば》
「それで兄弟が兄弟を告訴し、しかも、それを信者でない人たちの前でするのですか。そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。」 Ⅰコリント6:6,7
Ⅰコリント6章では信者同士の訴訟の問題を扱っています。信者同士の間に日常の小さなことで争いが起こったとき、どう対処したらよいのでしょうか。当時のコリント教会は、すぐに訴訟に持ち込み、信者でない人たちの前で訴え、判断を仰ぐようなことが行われていました。当時のギリシャ社会には訴訟を楽しむような文化があったそうで、それが教会内にも影を落としていたのです。イエスさまによって救われた信者は、本来は愛し合い、違いを乗り越えて一致していかなければいけません。それなのに互いに訴え合うなら、そのこと自体がすでに敗北なのです。世の影響が教会内に入って来ることは避けられないでしょう。しかし、教会は神さまの聖なる宮であり、聖徒の集まりであり、神さまの御心が第一にされなければならない場所です。それゆえにそこでの争いごとには、世の対処とは違う神さまの御心に沿う対処があるのではないでしょうか。何でもかんでもすぐに訴訟ではなく、愛と赦しの中にこそ教会のきよさが証されるのではないでしょうか。聖なる教会を目ざして、地道に歩んで行きたいと思います。
2020年 8月23日(日)
《今週のみことば》
「古いパン種をすっかり取り除きなさい。…古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」 Ⅰコリント5:7,8
コリント教会は性的不道徳という大変な問題を抱えていました。「父の妻を妻とする」淫らな行いにふける人たちがいました。「父の妻を妻とする」とは実母ではなく義母または継母を指しているのですが、性的不品行が教会内に存在していたのです。そしてもっと深刻なことに、教会がそのような重大な罪を抱えていても、誰も正そうとしない、またはその罪を犯している人を戒め、交わりから除こうとしないということです。罪という古いパン種を放置しておけば、その影響はどんどん広がって行き、教会のきよさが失われてしまいます。教会はきよさを保つために、古いパン種である罪を取り除かなければなりません。教会は罪に対して曖昧な態度ではいけないのです。古いパン種は取り除き、代わりに「誠実と真実」の心でキリストに感謝をささげましょう。地上の教会がますます聖なる教会とされますようにお祈りします。
2020年 8月16日(日)
《今週のみことば》
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 使徒3:6
使徒の働き3章に足の不自由な人が癒されるという奇跡が記されています。この人は宮に出入りする人から施しを求めて生活していました。ペテロとヨハネが祈りのために、「美しの門」にやって来たときのことです。この人はいつも通り施しを求めると、ペテロとヨハネは、金銀ではなくナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさいと言って、この人を立たせたのです。すると不自由だった足が直り、神を賛美しながら宮に入って行きました。この奇跡の鍵は「ナザレのイエス・キリストの名」にあります。十字架の死より甦り今も働いておられるキリストの力が、この人を強くし立たせたのです。この2,000年前の出来事は、今日も起こり得ます。時に病の癒しという形をもって、時に私たちの人生のやり直しという形をもって起こるのです。キリストは求める人にご自分の復活の力をもって新しい人生の扉を開いてくださいます。キリストを信じる信仰に立ち、キリストの御名の偉大さを知ることができますように。
2020年 8月 9日(日)
《今週のみことば》
「神の国は、ことばではなく力にあるのです。」 Ⅰコリント4:20
クリスチャンはイエスさまを救い主として信じており、復活されたイエスさまは今も生きて働いておられると信じています。この信仰をどのように人々に伝えたらよいのでしょうか。ことばで語るだけで伝わるのでしょうか。語ることは大切ですが、語ったように生きていなければ口先だけの人になってしまい、相手には伝わりません。大切なのは私たちの生き方を通して、何を信じているのかを知ってもらうことです。信仰とは何を信じているのかということも大切ですが、どう生きているのかがもっと大切です。イエスさまを信じて生きることで、私たちの内面が変えられて行きます。生き方が変わるのです。それこそが信じていることの力であり、そこに信仰の魅力を感じるのではないでしょうか。イエスさまには人を変える力があることを体験的に知って頂けたら幸いです。
2020年 8月 2日(日)
《今週のみことば》
「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。」 Ⅰコリント4:1,2
信仰者はキリストのしもべであり、神の奥義の管理者です。私たちはキリストのしもべですからイエスさまのために身を粉にして仕える者でなければなりません。きっとある人は言うでしょう。私はイエスさまのために身を粉にして働いてはいないので…と。しかし、それは違います。今日皆さんと一緒に礼拝をささげることができたこと自体が、しもべとして仕えていることの証しです。また、私たちは救いの恵みを掲げて歩むもので、神さまから頂いた恵みの管理者なのです。管理者には忠実さが求められますが、そのことも毎週礼拝を共にささげる中で証しているのです。礼拝を通して、私たちはキリストのしもべであり、神の恵みの良き管理者であることを公に告白しているのです。礼拝の恵みを共に分かち、新しい週を出発しましょう。
2020年 7月26日(日)
《今週のみことば》
「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。…あなたがたは、その宮です。」 Ⅰコリント3:16,17
教会は神の宮です。教会を構成する信仰者一人一人もまた神の宮です。教会が神の宮であるとは、次の3つのことを含んでいます。1つは教会の土台はイエス・キリストであるということ。2つ目はこの土台は唯一で他に土台はないということ。3つ目はキリストの土台の上に、信仰の実質という建物を建て上げていること。信仰の実質とは、見せかけの信仰ではなく、キリストの愛の実践と試練や困難にも耐え得る信仰で、その信仰は終末の神さまの審判にも耐え得るものでなければなりません。地上の教会または信仰者一人一人は、キリストを唯一の土台として、その上に主とともに生きる生きた信仰を築き上げているのです。御霊は地上の教会または信仰者一人一人を生きた信仰の証人として祝福してくださっているのです。
2020年 7月19日(日)
《今週のみことば》
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 マタイ11:28
マタイ11:28はイエスさまの救いへの招きとして有名なことばです。「疲れた人、重荷を負っている人」とはどんな人でしょうか。人生の様々な課題を背負って苦しんでいる人でしょうか。そうです。そのような人は、救い主イエスさまの下に身を委ね、平安を得て頂きたいと願います。さらにもう一つ別の種類の疲れと重荷が意味されています。それは旧約の律法によって縛られている人たちの生き難さです。行いによって人を評価し、良し悪しを決める生き方に疲れている人はいませんか。「~しなければならない」というかせをはめられて重荷を感じている人はいませんか。それはイエスさまの時代の人々が感じていた律法による疲れや重荷と同じものです。規則や戒律で人を縛り、その枠からはみ出すことが許されない社会の中で、生きることの疲れと重荷を感じている人は、ぜひイエスさまの下に来てください。イエスさまはこの疲れと重荷を取り除き、私たちを縛りから解放するためにこの世に来られた救い主ですから。イエスさまによって平安が一人一人にありますようにお祈りします。
2020年 7月12日(日)
《今週のみことば》
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」 Ⅰコリント3:6,7
コリント教会はパウロの第二回伝道旅行のときに誕生した教会です。パウロの後アポロが教会の建て上げにあたりました。パウロが教会の産みの親とするなら、アポロは育ての親です。コリント教会においてパウロとアポロの存在は重要で、二人の働きなくして教会は成り立たなかったと言えます。二人の功績を認めつつ、しかしそれ以上に大切なのが神さまです。パウロもアポロも異なる役割を与えられた神さまのしもべであり、教会を成長させてくださったのは神さまご自身なのです。このことは教会に限らず、信仰者の生涯にもあてはまり、誰かが私たちに福音を届けてくださったわけですから人の関与は大切ですが、それよりもっと大切なのが、育てたもう神さまの存在です。私たちは神さまに養われ、育てられ、キリストの似姿に成長していくのです。
2020年 7月 5日(日)
《今週のみことば》
「神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。神のことは、神の霊のほかにはだれもしりません。」 Ⅰコリント2:10,11
パウロは福音を語るとき、人間的な知恵や知識によってではなく、御霊の働きによって語りました。それは御霊なる神さまがどのようなお方か、良く知っていたからです。御霊は神さまの御心を私たちに示されます。御霊が私たちに示されるものは、私たちの目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、心に思い浮かんだことがないものです(Ⅰコリント2:9)。御霊は人には隠されている神さまの御心を私たちに説き明かしてくださるのです。なぜなら、御霊は神の深みにまで至り、神の一切をご存知だからです。また、人の心を開き、語りかけるのも御霊の働きによるのです。パウロは人の救いは御霊によってなされることを弁えていましたので、自分の知恵、知識、力、能力の一切を封印して「キリストのほかには、何も知るまいと決心した」(Ⅰコリント2:2)のです。御霊が一人一人に働いてくださることを信じて期待します。
2020年 6月28日(日)
《今週のみことば》
「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」 Ⅰコリント1:18
十字架のことば、それはイエスさまの福音のことです。福音は人々を二分してしまいます。福音を愚かなものとして退けてしまう人たちと、救いのことばとして信じて生きる人たちです。一人でも多くの方が後者の選択をして欲しいと願っていますが、実際は福音に耳を傾けてくださる方は少ないです。なぜでしょうか。それは、人間的な知恵や知識や議論によってイエスさまの十字架の意味を知ろうとするからです。しかし、この世の知恵によっては神さまを知ることができないのです。ある人は十字架と復活のメッセージに耳を閉ざしてしまうかもしれませんが、神さまは人々が愚かなものとして退けてしまう宣教のことば(十字架と復活)を通して、人を救いに導こうとされました。罪からの救いを得て、神さまの御力を経験したい方は、ぜひ福音であるイエスさまの十字架と復活に対して心を開いて、聖書からその意味を知って頂きたいと思います。神さまの御力である救いの恵みが一人一人に注がれますようにお祈りします。
2020年 6月21日(日)
《今週のみことば》
「父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」 ルカ15:20
今日は父の日。日ごろ表すことの少ない父への感謝を表す日として意義深く過ごしたいものです。皆さんが父親に持つイメージはどのようなものでしょうか。恐い父、気難しい父、優しい父、面白い父…。それぞれのイメージがあるでしょうが、大きな愛で包んでくれる父という印象を持つ人はいるでしょうか。そのような人の父親像はステキだと思います。なかなかそのようなお父さんは少ないと思います。冒頭のみことばは放蕩三昧して帰って来た息子を迎える父を描いたものです。好き勝手して財産を使い果たしボロボロになった息子に向かって、怒ることも責めることもせず、むしろ愛と赦しをもって迎え入れる父。実はこの父の姿は、私たちを愛しておられる神さまの姿なのです。世のお父さん方が神さまの愛に触れると、お父さんの心に神さまの愛が宿り、周りの人を大きな愛で包む人に変えられます。大きな愛で家族を包む愛のお父さんになりたい人は、ぜひ大きな神さまの愛に触れてください。父の日に、すべてのお父さんに神さまの愛が届けられますようにお祈りします。
2020年 6月14日(日)
《今週のみことば》
「どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。」 Ⅰコリント1:10
コリント教会には内部に派閥がありました。「パウロ派」「アポロ派」「ケファ派」「キリスト派」の4派に争いがあったのです。教会内に派閥争いがあるのですか?と疑問を持たれる方もいるでしょう。争いごとに発展するかどうかは別としても、教会も人間の集まりですから、牧師や有力な信徒に組する人たちがいても不思議ではありません。しかし、それは教会として健全な姿ではないです。教会の頭はキリストですから、皆の目が人ではなくキリストに向かなければなりません。キリストをそっちのけにして、内部で仲間割れしていたら証になりませんし、宣教のために力を合わせることもできません。当時のコリント教会が抱えていた問題から学び、現代の教会が聖なる教会として地上に建てられ続けていくように祈ります。私たちの教会もキリストのために心を合わせ、一致して福音のために歩んでいきます。
2020年 6月 7日(日)
《今週のみことば》
「コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。」 Ⅰコリント1:2
今日からコリント教会について学びます。コリント教会はパウロの第二回伝道旅行によって生み出された教会です。人と物が豊かに行き交う貿易の町として栄えた一方で、道徳的廃頽の町として有名でした。そのような町に建てられた教会ですから、様々な問題が生じました。えっ、これでも教会なの?と驚くような問題がある中、パウロはコリント教会を捉えて「神の教会」「聖なる者」「聖徒として召された方々」と呼んでいます。これは皮肉でしょうか?そうではありません。確かに問題だらけのコリント教会ですが、神さまに呼び出され者たちによって建てられた神の教会であることに間違いはありません。コリントのクリスチャンはイエスさまの贖いによって神さまの前に聖なる者なのです。私たちはお互いの欠点や問題点ばかりを見てしまいますが、イエスさまがいのちをかけて愛してくださった教会であり、兄弟姉妹であることを忘れてはいけません。互いを尊び、聖徒として建て上げられるように祈りましょう。
2020年 5月31日(日)
《今週のみことば》
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」 ヨハネ7:37,38
今日は聖霊が弟子たちに注がれたことを記念するペンテコステの礼拝でした。聖霊はイエスさまが天に上げられたあと、慰め主となって弟子たちの傍らにいてくださるだけでなく、力強く導いてくださる神さまです。その聖霊は今信じる者たちの心に住み、心の奥底から生ける水を流してくださいます。この生ける水は人の心を満たし、人を新しく造り変え、人生に潤いを与えるのです。また、生ける水によって満たされた人は、イエスさまのために生きる人になり、宣教の前線に出て行く人になるのです。聖霊が弟子たちに臨み、その結果地上に教会が生み出されましたが、私たちも聖霊に満たされて、宣教のために立ち上がる人にならせていただきましょう。渇いている人の心に、この水を届けるために。
2020年 5月24日(日)
《今週のみことば》
「キリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」 エペソ1:11,14
聖霊を心に宿す者は幸いです。その人は御国を受け継ぐことが約束されているからです。イエスさまの十字架を信じることは、罪が赦され、神の子とされ、御国を相続することが聖霊によって保証されたことを意味します。十字架を通して注がれた神さまの祝福はとてつもなく大きいのです。人は自分の行いを見て、天国に行けるのか行けないのか計ろうとします。まるで学校の試験のように〇✕をつけて採点するのです。するとほとんどの人は落第点となるでしょう。そうやって行いによって信仰を計ることを止め、キリストの十字架による赦しの信仰に立ち、聖霊による御国の保証を握って喜んで信仰生活を送りましょう。やがて御国の住人として迎えられることを楽しみにしています。
2020年 5月17日(日)
《今週のみことば》
「この御霊によって、私たちは「アバ、父」と呼びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」 ローマ8:15,16
私たちがイエスさまを信じて歩み出すとき、聖霊なる神さまはその人の内に住んでくださり、内側から力強く支え、導いてくださいます。そのようにして、イエスさまを信じた人は聖霊と共に歩む新たな人生をスタートさせるのです。イエスさまを信じることは、その人の罪が赦されることだけでなく神の子どもとされることでもあり、神さまを「お父さん」と親しく呼ぶことができる関係に入れられることです。私たちの内に宿る聖霊は、私たちが神の子どもであることを証してくださり、いつでも神さまを「お父さん」と呼べるように導いてくださる方です。聖霊が助けてくださるので、子として安心して神さまについていけるのです。聖霊が共にいてくださることによって得られる安心、平安が一人でも多くの方に届きますようにお祈りします。
2020年 5月10日(日)
《今週のみことば》
「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」 ヨハネ16:7
今日は母の日。母への感謝を表し、日ごろの労苦に神さまが報いてくださるようにお祈りします。イエスさまの愛は広さ、長さ、高さ、深さにおいて人知を超えた大きさを持っています。すべての人を愛する広さがあり、永遠に至る長さを持ち、罪の赦しのためにはいのちを捨てる高さを持ち、決して私たちを見捨てない深さを持っています。そのイエスさまの愛は母の内に表れ、母の愛は子どもや家族一人一人に注がれる広さを持ち、何歳になっても我が子は我が子という長さを持ち、見返りを期待しない高い愛であり、子どもや家族を決して見捨てない深い愛なのです。イエスさまの愛が母を通して注がれるために、母自身が愛に満たされていなければなりません。いつも母がイエスさまの愛で満たされているように祈りましょう。
2020年 5月 3日(日)
《今週のみことば》
「わたしは真実を言います。わたしが去っていくことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」 ヨハネ16:7
イエスさまはご自分がこの世を去ることは益になると言われました。世を去るとは復活の後天に上げられることを指しています。ご自分が世を去る代わりに助け主なる聖霊が遣わされるからです。助け主とは、援助者とかとりなし手のことで、聖霊はイエスさまを信じる者の内に宿り、いつも傍らにあって支え、守り、導いてくださる援助者です。聖霊は霊なるお方ですから、時間や場所に制約されません。今ここでAさんが祈る祈りも、Bさんが祈る祈りも同じように聞いてくださり答えてくださるのです。今日も日本中で、世界中で祈りがささげられます。すべての祈りに耳を傾けてくださる聖霊のゆえに、私の祈りもちゃんと届いているのだと安心できます。今週も私たちの傍らに立ち、祈りを聞いてくださる聖霊に目を向けて歩みましょう。
2020年 4月26日(日)
《今週のみことば》
「すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」 ルカ24:31,32
イエスさまが復活された日、二人の弟子がエマオに向かって歩いていました。そこにイエスさまが現れてくださいましたが、弟子たちはそれがイエスさまだとは気がつきませんでした。しかし、夕食の席でイエスさまがパンを裂いて弟子たちに渡すと、彼らの目が開かれイエスさまだと分かったのです。私たちには二つの目があります。肉体の目と心の目(あるいは霊の目)です。肉体の目が開かれていても、心の目が閉じていると、聖書のことばもイエスさまのことも入って来ません。知識として理解できても、自分と繋がらないのです。私たちの生き方が変わっていくために、「私の心の目を開いてください」と祈りましょう。心の目が開かれると、イエスさまが見ておられる世界を見ることができ、イエスさまと同じように考える人に変わっていきます。そうやって、私たちがイエスさまのように変えられていくことが、人としての幸せなのです。
2020年 4月19日(日)
《今週のみことば》
「八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたにあるように』と言われた。」 ヨハネ20:26
イエスさまが復活をされて一週間後、再びイエスさまは弟子たちに復活の姿を現わされました。一週間前の復活の当日もそうでしたが、この日も弟子たちは恐れて戸に鍵をかけていました。外部との接触を遮断し、恐れと不安の中に閉じこもっていたのです。そこに「平安があるように」と言ってイエスさまが現れてくださいました。イエスさまは不安を抱える人のところに平安を届けてくださる方です。イエスさまの平安は、世の平安とは違い、決して奪われることのない平安であり、十字架の死を打ち破って勝利されたところの平安です。これが今私たちに届けられているのです。世の中は不安に包まれています。その不安を上回るイエスさまの平安があることを忘れてはいけません。皆さんの今週の歩みが守られますようにお祈りします。
2020年 4月12日(日)
《今週のみことば》
「イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたにあるように』と言われた。」 ルカ24:36
2020年のイースターおめでとうございます。イエスさまの復活を記念して、喜びの礼拝をささげました。復活されたイエスさまは弟子たちの真ん中に立ち、平安があるようにと語られました。イエスさまの立ち位置にとても励まされました。失望と恐れを抱く弟子たちの真ん中に立たれたのです。外とか離れたところではなく、抱える問題の只中に入ってくださいました。いつもイエスさまは問題の中にいっしょにいてくださるお方です。それは、十字架の前も後も同じです。よみがえられたイエスさまは、かつて弟子たちとともに歩まれた正真正銘のイエスさまでした。そして弟子たちが一番必要としていた平安を与えてくださったのです。色々問題を抱える私たちですが、その只中に復活の主が立ってくださり、「平安があるように」と語ってくださいました。今週、復活の主の平安が一人一人とともにありますようにお祈りいたします。
2020年 4月 5日(日)
《今週のみことば》
「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」 イザヤ53:5
今日からキリストの最後の一週間を表わす受難週に入ります。日曜日に「ホサナ、ホサナ」(今、お救いください)と言ってエルサレムに迎えられたイエスさまは、その週の金曜日に十字架に付けられて殺されてしまいました。救い主として来られた方が十字架で死んでしまったら、救いの道を開くことができなくなってしまうのでは…と思う方がいるでしょう。確かに見えるところでは十字架によって殺されてしまったのですが、その背後には人が見る世界とは違う神さまの御心(ご計画)がありました。それが冒頭のみことばです。キリストが十字架で死なれたのは、私たちの罪・咎を背負い、その刑罰としての死を身代わりに受けてくださったことにより、罪の赦しを宣言するためでした。人の目には隠された神さまのご計画がキリストの十字架にはあるのです。聖書の福音書を開いて、十字架に向かわれるイエスさまの足取りを辿り、そこに示された神さまのご計画を見ることができますように。
2020年 3月29日(日)
《今週のみことば》
「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」 ヨハネ17:18
イエスさまは十字架を前にして祈られた祈りの中で、弟子たちを世に派遣する祈りをされました。イエスさまは父なる神さまから私たちの救いのためにこの世に遣わされた方です。そのイエスさまが、ご自分が間もなく世を去る時が来ることを知られたときに、今度は弟子たちを遣わされたのです。派遣には使命が伴います。イエスさまは弟子たちに福音宣教のバトンを託されたのです。そのバトンを受け取った弟子たちは、イエスさまのためにいのちを捨てる者に変えられ、地上に教会が生み出されて行ったのです。イエスさまが弟子たちを派遣されたように、私たちもイエスさまから遣わされたものです。イエスさまを救い主として信じる方が起こされるように、一人一人置かれた立場の中で福音を届ける者として歩んで行きましょう。
2020年 3月22日(日)
《今週のみことば》
「イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」 ヨハネ13:1
受難節の歩みの中、今日は十字架の前夜のイエスさまと弟子たちの最後の食事の場面に心を向けました。夕食の間のこと、イエスさまは立ち上がり、弟子たちの足を洗い始められたのです。なぜ弟子たちの足を洗われたのでしょうか。このときイエスさまに残された時間は数十時間しかありませんでした。ご自分が十字架にかけられることを知っておられたイエスさまは、ご自分の愛を極みまで表すために弟子の足を洗われたのです。そこには模範を示すという意味もありました。主であり師であるイエスさまが弟子たちの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきですと。イエスさまが残された時間の中で一番伝えたかったこと、それは互いに愛し合うことでした。教会の中でも外でも、互いに愛し合うことほど美しいものはありません。愛を広めて行きましょう。
2020年 3月15日(日)
《今週のみことば》
「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」 ヨハネ12:24
イエスさまはご自分のことを一粒の麦にたとえてお話されました。このお話は十字架にかけられる3日前になされたものです。一粒の麦が地に落ちて死ぬとは、ご自分が十字架にかけられ死ぬことを示しています。イエスさまが十字架で死なれたのは何のためでしょうか。それは人々の罪を背負い、十字架の死をもって罪の刑罰をその身に受け、罪の赦しをすべての人々に届けるためでした。もし、イエスさまが十字架で死なれなかったなら、(地に落ちて死ななければ)、罪の赦しは成し遂げられないままです。今、イエスさまが十字架で死んでくださったことにより、私たちの罪は赦され、復活のいのちによる豊かな実を結ぶことができるようにされていることを感謝します。私たちもイエスさまのように一粒の麦となって死ぬこと(犠牲を払うこと)で、人々の祝福の基とされるように祈ります。
2020年 3月 8日(日)
《今週のみことば》
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」 ヨハネ11:25,26
このことばは、イエスさまが愛されたラザロが死んでしまい、悲しむラザロの姉妹に語られたことばです。イエスさまが姉妹のところに行かれたとき、すでにラザロは墓に納められて4日になっていました。イエスさまは、ご自分が死んだラザロを蘇らせることのできる力を持っていることを示され、あなたはそれを信じますかと問われたのです。さて、この場面に私たちがいたなら、何と答えるでしょうか。死者をも蘇らせることのできるお方としてイエスさまを信じるなら、はい。信じますと答えれば良いのですが、皆さんはどうでしょうか。イエスさまをどのように理解しているのか問われる質問ですね。
2020年 3月 1日(日)
《今週のみことば》
「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。」 マルコ12:43
ひとりのやもめがレプタ銅貨2枚を献金箱に入れる様子をご覧になったイエスさまは、彼女の行為を「だれよりも多く投げ入れた」と仰いました。やもめがささげたレプタ銅貨は当時の通貨の最小単位で、今の日本円に換算すると80円くらいかと思います。それを2枚ですから約160円。他にも「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた」とある中、どうして「だれよりも多く」と言われたのでしょうか。それは、レプタ銅貨2枚はやもめにとって「生きる手立てのすべて」だったのです。献金の金額の問題ではありません。彼女の信仰が献金に表されていて、イエスさまはそこをご覧になり「だれよりも多く」と仰いました。目に見える量や形より、その人の心の在り方を大切にしたいと思います。

2020年 2月23日(日)
《今週のみことば》
「ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で 主をほめたたえよ。」 詩篇148:1
詩篇146~150篇は「ハレルヤ詩篇」と言い、ハレルヤで始まってハレルヤで終わっています。ハレルヤって何でしょうか。ハレルヤの意味は「主をほめたたえよ」です。天において主をほめたたえ、地において主をほめたたえるように、天と地が主への賛美に招かれています。神さまによって造られたものの務めは主をほめたたえることです。被造物の冠として創造された私たちにとって、主をほめたたえることは最高の奉仕です。全身全霊をもって主をほめたたえて一週を始めるなら、その週は間違いなく主によって祝されるでしょう。主はご自分をほめたたえるものを祝福されないわけがないからです。

2020年 2月16日(日)
《今週のみことば》
「すると天から声がした。『あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。』」 マルコ1:11
イエスさまがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、水から上がると天から声がしました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という声です。この声をヘンリ・ナウエンという人は存在証明の声と言いました。人の価値が能力や成果によってはかられる社会の中にあって、その人が存在していること自体が尊いということをもっと声を大にして届けなければいけません。何かができる、できないということに関係なく、人がそこに存在していることが尊いのです。イエスさまは私たちに向かって「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と言ってくださっています。今日それを受け取りましょう。

2020年 2月 9日(日)
《今週のみことば》
「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」 マタイ21:9
イエスさまが十字架にかけられる5日前の日曜日、都エルサレムに入られたときのことです。人々は「ホサナ…」と言って、ロバの子に乗って入京されるイエスさまを賛美しました。「ホサナ」とは「どうぞ、救ってください」という意味です。イエスさまは私たちの罪を赦し、救いを届けるためにこの世に来られた救い主ですから、まさに「ホサナ」と賛美されるのにふさわしい方です。クリスチャンが神さまを賛美する背後には、イエスさまによって救われた喜びと感謝があります。この年、教会に「ホサナ」と言ってイエスさまを賛美する人たちが満ちるように祈っています。

2020年 2月 2日(日)
《今週のみことば》
「全イスラエルは歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、琴と竪琴を響かせて、主の契約の箱を運び上げた。」 Ⅰ歴代誌15:28
教会の礼拝では必ず賛美がささげられます。それはいつから始まったのでしょうか。礼拝賛美のルーツはダビデがエルサレムに主の契約の箱を運び上げたときにありました。そのとき、賛美チームが編成され、様々な楽器で主をほめたたえています。ダビデ自身も飛び跳ねて全身で喜びを表しています。全身全霊で主を賛美する理由は、過去のイスラエルの失敗と痛みにありました。本当に大変な中を通り、やっとの思いで今エルサレムに契約の箱を運び入れようとしているのですから、その喜びは一入(ひとしお)です。私たちの礼拝もダビデのように心から喜んでささげる礼拝となりますように。その喜びを私たちの存在を通し、また様々な楽器を通して表せたら幸いです。豊かな礼拝を目指しましょう。

2020年 1月26日(日)
《今週のみことば》
「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。」 使徒16:25
今年の教会目標である「賛美」についての3回目の思い巡らしです。賛美はいつ、どこでささげられることがふさわしいのでしょうか。多くの人は、賛美は教会の礼拝でささげられるものと思っています。まさにその通り、礼拝でささげられるものですが、それだけではありません。私たちの一週間は大半が家庭、職場、学校、地域などで過ごしています。ですから、そこが賛美の場となる必要があります。日常の中での賛美こそが、人々を救いに導く力となります。今、自分が置かれている場が賛美の場です。パウロとシラスにとって、今置かれた場所は何と獄舎の中でした。しかし、そこが彼らの賛美の場だったのです。その結果、看守とその家族が救われました(詳細は使徒16章を参照)。問題課題の多い私たちの日常。でもそこが賛美の場になったらすばらしいです。

2020年 1月19日(日)
《今週のみことば》
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」 創世記17:1
今日は教会総会の礼拝でした。今年の教会の歩みを展望しているとき、冒頭のみことばが示されました。私たちが信じている神さまは、どんな神さまなんでしょうか。人間のように限界を持ち、枠の中に納まった神さまでしょうか。いいえ、全能の神さまです。全能とは、何でもできるという意味にも理解できますが、ここではご自分が語ったことばは必ず実現するという意味で受け取りました。神さまはアブラムに、あなたには星の数ほどの子孫が与えられると約束してくださり、その約束を果たすことの確かな証拠として「全能の神」と言われたのです。私たちはその神さまに100%信頼して歩むことが求められています。この年、教会はまさに約束を果たされる全能の神さまを信じて歩み出そうとしています。

2020年 1月12日(日)
《今週のみことば》
「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。」 コロサイ3:12
今日も礼拝で神さまに向かって賛美をささげました。どうして教会では賛美歌を歌うのでしょうか。それが教会の文化だからでしょうか。キリスト教式の結婚式はもとより、葬儀でも賛美歌を歌います。礼拝だけでなく様々な集会で賛美します。その理由が冒頭のみことばにあります。神さまはキリストを通して私たちを救おうと定められ、私たちの罪を消し去り聖なる者とし、滅びからいのちへと移してくださいました。私たちはキリストにあって、神さまに選ばれた者、聖なる者、愛されている者なのです。そのことへの感謝が賛美となって神さまの御前にささげられるのです。どうか、いつも私の口から神さまに愛されている喜びがあふれますように。

2020年 1月 5日(日)
《今週のみことば》
「詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」 コロサイ3:16
今日は2020年最初の礼拝をささげました。今年の豊田教会の年間標語は「神に向かって歌う」です。賛美の恵みを深めたいとの願いから与えられたものです。ところで、賛美とは何でしょうか。賛美歌を歌うことでしょうか。それも賛美の持つ一つの面ですが、賛美は神さまの恵みに対する私たちの応答であり、信仰の証・告白です。賛美をお受けになる方は神さまご自身であり、私たちは神さまに賛美をささげるのです。この一年、神さまをほめたたえる霊に燃やされて歩みたいと思います。皆さんもご一緒に神さまを賛美してみませんか。

2020年 1月 1日(水)
《今週のみことば》
「箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、川上から流れ下る水が立ち止まった。」 ヨシュア3:15,16
主にあって2020年の幕開けを慶び、御名をほめたたえます。皆さんの一年間の歩みが神さまによって祝福されますようにお祈りいたします。神さまはこの年、ご自分の大いなるみわざを一人一人に見せたいと願っておられます。そのみわざを見せていただくために、私たちも神さまを信頼して一歩踏み出そうではありませんか。イスラエルの民がヨルダン川を渡るとき、祭司たちの足の裏が川の水に触れたとき、川の水が堰き止められて民は川を渡ることができました。信じて一歩を踏み出してみると、何かが起こるのです。その何かの中に神さまはご自分を証しておられるのです。
2019年12月29日(日)
《今週のみことば》
「それゆえ、私は言う。『私は待ち望む。主の恵みを。』実は、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。」 哀歌3:21,22
2019年最後の礼拝をささげました。一年間、個人においても教会においても様々なところを通って来ました。信仰の危機に直面するような厳しいところも通過しました。しかし、毎週変わらず礼拝をささげることができ、感謝のうちに一年を締め括ることができる幸いをかみしめています。当たり前のように時が過ぎていきますが、そこにはいつも神さまの恵みとあわれみの御手があり、支えてくださったことを思い、御名をほめたたえます。また兄弟姉妹の祈りと主への信仰によって一つ一つ乗り越えてくることができました。すばらしい信仰の友が与えられていることをうれしく思います。イエスさま、一年間守ってくださってありがとうございました。2020年も宜しくお願いいたします。

2019年12月22日(日)
《今週のみことば》
「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」 ルカ2:14
本日、クリスマス礼拝をささげました。夜番をしている羊飼いたちに救い主誕生の知らせが届けられたとき、天に軍勢が現れ神を賛美して言いました。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」と。天での栄光と地での平和は別々のことではなく、天での栄光が地に注がれたとき、地に平和が実現するということで、天と地はキリストによって繋がるのです。天から人の子として誕生してくださったキリストこそ、私たちの平和のしるしです。キリストによる平和が一人一人のうちに実現しますようにお祈りします。

2019年12月15日(日)
《今週のみことば》
「私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」 ルカ2:30-32
イスラエルの救いを待ち望んだ老聖徒シメオンの賛歌(ヌンク・ディミティス)の一節です。この賛歌にはキリストの救いの広がりが表されています。キリストは特定の民族の救い主ではなく、すべての人の救い主です。それゆえに、私たち日本人にもキリストの救いは届けられ、キリストを「私の主」として信じる人たちが起こされています。キリストは万民の救い主であり、異邦人の光です。今年のクリスマスを通して、この方を信じて新しい生涯へと踏み出す方々が起こされますようにお祈りします。そのために、教会の礼拝はすべての人に開かれていますので、どうぞ、お気軽に礼拝においでください。お待ちしています。

2019年12月 8日(日)
《今週のみことば》
「主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。」 ルカ1:72,73
このみことばは、バプテスマのヨハネの父であるザカリヤの賛歌(ベネディクトゥス)の一部です。ザカリヤは祭司でしたからこの賛歌には、イスラエルの過去の歴史が背景としてあるのです。かつて神さまはアブラハムに誓われた誓いを忘れることなく、今ここに実現させてくださいました。それがイエスさまの誕生であると証しています。紀元前2,000年頃に生きたアブラハムへの約束を神さまはずっと忘れないで、時が満ちたとき実現させてくださいました。神さまはご自分の誓いを必ず果たされる真実な方です。神さまの真実は今を生きる私たちにも向けられており、今も世界のどこかでイエスさまを救い主として信じる方々が起こされているのです。

2019年12月 1日(日)
《今週のみことば》
「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。」 ルカ1:46-48
今日からクリスマスを待ち望む待降節(アドベント)に入ります。御使いは処女マリアに救い主イエス・キリストの懐妊を告げます。この知らせを聞いたマリアは神さまをほめたたえて言いました。“神さま、この卑しいはしために目を留めてくださってありがとうございます”と。自分をはしため(女奴隷の意)と称するマリアの謙遜さの前に、私の強欲傲慢さが写し出されて恥ずかしくなりました。神さまは身を低くするマリアに目を留めてくださったように、強欲傲慢でうつむく「恥ずかしい私」にも目を留めてくださっているのですね。ありがたいことです。

2019年11月24日(日)
《今週のみことば》
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 ヨハネ3:16
神さまは愛です。これが福音理解の出発点です。でも、この世界には不幸や悲しみが満ちていて、神さまの愛に疑問を投げかけてきます。しかし、それだからと言って神さまの愛が消されてしまうことはありません。それどころか、不幸や悲しみの只中にキリストは共にいて私たちの心と身体とたましいを守り支えてくださいます。神さまがこの世を愛されたことは、信じる者の内にキリストが共におられることでわかるのです。キリストが共におられることを一人一人が知ることができますように。そのような人が一人、また一人と増えることで、神さまがこの世を愛しておられることが証されますように。

2019年11月17日(日)
《今週のみことば》
「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」 ルカ10:42
聖書には対照的な姉妹が出て来ます。イエスさまのもてなしに忙しく動いているマルタ。手伝いもせずイエスさまの足もとで話を聞いているマリア。この姉妹の行動から、その人が何を大切にしているかがわかります。私たちは大切にしなければならないことがたくさんあります。しかし、その中から一つだけ選びなさいと言われたら何を選ぶでしょうか。イエスさまはこの時、マリアの態度をほめておられます。それはイエスさまが主のことばを伝えるために来られた方だからです。様々な情報の中から何を一番大切にするのか、その選択を正しくできる者でありたいと願います。その中にぜひ聖書を加えていただけたら嬉しいです。

2019年11月10日(日)
《今週のみことば》
「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」 マルコ12:30,31
今日は教団の世界宣教の働きを覚えて礼拝をささげました。DVDを通し宣教報告とメッセージに耳を傾けました。宣教のためには3つのステップが大切だと語られました。第一のステップは、まずイエスさまからいっぱい愛を注いでいただくことです。愛されて心がいっぱいになったら、次の2つのステップである主を愛することと隣人を愛することに向かいます。主を愛することと隣人を愛することは表裏の関係にありますので、切り離して考える必要はありません。世界宣教のために私たちが喜んでお仕えするとき、それは主を愛することでもあるのです。今すぐにでもできることは、宣教地と宣教師のために祈ることです。祈って世界宣教の働きに一緒に与らせていただきましょう。

2019年11月 3日(日)
《今週のみことば》
「今日は私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」 ネヘミヤ8:10
エルサレムの城壁が完成したあと、「モーセの律法」が朗読されました。そのとき民は「みな泣いて」(9節)いたのです。城壁の完成を喜ぶべきときに、なぜ泣いていたのでしょうか。それは聖書のことばをきいたとき、そこに自分たちの罪を見て、悔い改めの涙を流したのです。みことばは私たちの罪を示すとともに、罪ある者を赦す神の恵みを示すものです。神さまはみことばの前に泣いて悲しんでいる民に、今日は聖なる日であるから悲しんではならないと語ってくださいました。神さまは罪ある民を赦してくださるお方です。それゆえに、私たちは赦された恵みに感謝して、主を喜び賛美するのです。

2019年10月27日(日)
《今週のみことば》
「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。」 ネヘミヤ6:15
何事も事を成し遂げるということは大変なことです。人は成し遂げられた結果だけを見て評価しますが、その結果がもたらされるまでの戦いや苦労には目を向けません。冒頭のみことばは、ネヘミヤがエルサレムの城壁の修復を完成させたときのものですが、「こうして」というひと言には多くの困難があったことが含まれています。外からの妨害(4章)、内からの不満(5章)、ネヘミヤ自身への誹謗中傷(6章)など様々な戦いがありました。それでも、ネヘミヤは神さまへの信仰を失わず再建を成し遂げました。そこには彼のすばらしい信仰とともに、この事業は神さまご自身の働きであることが証されているのです。神さまはご自分の働きを責任をもって全うしてくださる方です。私たちがなすべきことは、神さまのなさる働きに疑いを挟み込まず、不平を鳴らさず、目の前の困難を一つ一つ受け止めて対処していくことです。そうするとき、神さまご自身が事を完成させてくださるのです。

2019年10月20日(日)
《今週のみことば》
「イエスは言われた。『できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』するとすぐに、その子の父親は叫んでいった。『信じます。不信仰な私を助けてください。』」 マルコ9:22,23
ある父親が霊につかれた息子をイエスさまの前に連れて来て、「しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」と懇願しました。イエスさまは父親のことばにご自分に対する不信仰を見て取られ、冒頭のことばを返されたのです。実は、父親のイエスさまに対する信仰は完全ではなく、どこか不完全な部分を持っていたのです。父親は息子の癒しを願い出たのに、自分の信仰の問題が問われていることに気づき、「不信仰な私を助けてください」と祈らざるを得ませんでした。父親の姿を自分に重ねるとき、私たちはどうなのでしょうか。イエスさまに対して、「信じる者には、どんなことでもできる」と100%の信頼をおける者はさいわいです。なぜなら、信じたようになるからです。

2019年10月13日(日)
《今週のみことば》
「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう…』神は人をご自身のかたちとして創造された。」 創世記1:26,27
今日は召天者記念礼拝でした。先に召された方々を偲び、御国での再会を希望する礼拝として捧げました。人はどこから生まれ、どこに行くのか。生きることは楽しくもあり辛くもある。いや辛いことの方が多いのではないか。それなのにどうして生きなければならないのか。そんなことを考えたことはないでしょうか。その答えは冒頭のみことばにあるように思います。人は神さまによって造られ、愛によって結ばれ、地上にいのちを与えられたものです。意味なく存在していることはなく、人は神さまの創造の秩序を保ち、管理し、この世界に神さまの祝福をもたらすために生かされているのです。それが、たとえ辛い環境の中であったとしても。すべての人が神さまの創造の冠として造られていることを尊び、互いに愛し合う社会を実現させたいと思います。

2019年10月 6日(日)
《今週のみことば》
「その傍らではハルマフの子エダヤが自分の家のそばの部分を修復し、その傍らではハシャブネヤの子ハトシュが修復を行った。」 ネヘミヤ3:10
ネヘミヤ3章にはエルサレム神殿の崩れた城壁の再建工事の様子が描かれています。この工事には2つの特色があります。一つは「その傍らで」ということばが表しているように、互いの工事はそれぞれが個別のものではありますが、決してバラバラではなく、連携しているということです。教会の働きも個人プレーはダメです。互いの持ち場はありますが、キリストのからだとして皆繋がっていますから、兄弟姉妹の繋がりを大切にしましょう。もう一つの特色は、自分の家のそばの部分を修復したということです。まず手をつけるべきところは、自分の足元からではないでしょうか。もし、身近な関係(教会の兄弟姉妹、夫婦関係、親子関係、友人関係など)の中に修復すべき部分を示されたなら、まずはそこから着手すること。自分の足元からしっかり固めていきたいと思います。

2019年 9月29日(日)
《今週のみことば》
「わが神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくださった。」 ネヘミヤ2:8
ペルシア王の献酌官であったネヘミヤの下に、故郷エルサレムの城壁が崩れたまま放置されていることが伝わったとき、ネヘミヤはペルシア王に城壁修復のためにエルサレム帰還を願い出ます。王はネヘミヤの願いを聞き入れ、帰還と帰還後の城壁再建のために便宜まで図ってくれました。どうして王はそこまでしたのでしょうか。そこには、見えざる神さまの御手がネヘミヤの上にあり、その結果王の心が動かされ、エルサレム帰還の願いが実現したのです。神さまを信頼し、神さまを愛して生きる者に、神さまはご自分の御心を成してくださるお方です。御心の実現のために周りの人の心まで巻き込んで、事を進めてくださるのです。神さまの御手が共にある人生は力強いです。

2019年 9月22日(日)
《今週のみことば》
「このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。」 ネヘミヤ1:4
ある日突然、重大なニュースが舞い込んで来たら私たちはどうするでしょうか。その問題の解決のためにすぐに行動する人もいるでしょう。行動することは大切ですが、それよりもまずしなければならないことがあります。それが「座る」ということです。座ってまず神さまに祈り、御心を仰ぐことです。時にその問題が余りにも大きく悲しみを伴ったものである場合があります。涙をもって祈らなければならないこともあるでしょう。その涙は聖なる涙であって、神さまは涙をもって祈る祈りをないがしろにはなさいません。スピードや効率を追求する社会にあって、座して祈る、心を注ぎ出して(涙して)祈ることを許さない雰囲気があります。しかし、私たちは勇気をもって「座る」ことを選びます。そして全能の神さまに心を注ぎ出して祈ります。これこそが問題解決の最短距離であることを思います。何よりもまず祈りましょう。

2019年 9月15日(日)
《今週のみことば》
「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。」 ヨハネ6:9,11
少年が持っていた5つのパンと2匹の魚で男だけで5,000人の空腹を満たすというイエスさまの奇跡。「5,000人の給食」として知られているこの奇蹟は、いったいどんな風に行われたのか興味を持つ方が多いでしょう。膨らむ想像はいったん脇に置いて、この奇蹟の示すメッセージに心を向けましょう。それは、イエスさまが介入される前と後の人の姿にあります。イエスさまのお話を聞くために多くの人が集まって来ました。夕暮れが近づいたとき、イエスさまはそこに空腹の群衆をご覧になり、冒頭のみことばのように5つのパンと2匹の魚を祝福して人々に分け与えたのです。その場にいた群衆はそれを食べ満腹し、余ったパン切れを集めると12籠になったのです。イエスさまの介入により、空腹が満腹に、悲しみが喜びに、嘆きが喜びに、失望が希望に、怒りが平安に、不満が感謝に変わるのです。イエスさまは私たちの人生をそのように変えることのできる御力を持っておられます。この方を迎え入れてみませんか。

2019年 9月 8日(日)
《今週のみことば》
「しかし、このことについてイスラエルには今なお望みがあります。立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」 エズラ10:2,4
今日でエズラ記の学びを終わります。エズラがイスラエルに見たものは、異国の女性を妻とする雑婚の現場でした。神の民が信仰の純粋性を確保するために、神さまは律法で雑婚を禁じています。神さまが願わない結婚を推し進めた背景には、神さまへの不信仰という罪が隠されていました。その罪が今あらわにされたとき、神さまの前にもはや「私たちには望みがない」と落胆してもおかしくありません。しかし、あわれみ深い神さまは「今なお望みがある」と言われます。人は罪を犯した者、失敗した者に対して厳しいです。しかし、神さまはそのような者の近くにいて、回復のためにチャンスを与えてくださるのです。罪や失敗に悲しむ者に、神さまはもう一度立ち上がるチャンスを与えてくださいます。どんなときも神さまに望みを置いて歩む人は幸いです。

2019年 9月 1日(日)
《今週のみことば》
「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」 ルカ2:29,30
9/1の礼拝はご高齢者への祝福を込めて愛老礼拝をささげました。老いることは肉体的、精神的、社会的に様々な不安を抱えることになりますから、否定的に受け止められやすいです。そうした現実は認めつつも、少しでも平安な日々を過ごし、老いることを肯定的に受け止め、さらには愛することができるようになればと願い、愛老とつけさせていただいています。老いを愛するとは口で語るほどに簡単なことではありませんが、常に側に寄り添い、支え合う関係の中で実現できたら幸いです。教会はキリストの愛をもって仕えるためにこの世に存在しています。冒頭の「しもべを安らかに去らせてくださいます」という「安らかさ」を教会からお届けできたら嬉しく思います。

2019年 8月25日(日)
《今週のみことば》
「彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをすべてかなえた。エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心に定めていた。」 エズラ7:6,10
バビロン捕囚からエルサレムに帰還したイスラエルの民は荒廃したエルサレム神殿を建て直しました。しかし、それで再建工事が完成したわけではありません。建物としての器は完成しても、肝心の中身が未だなのです。その中身とは何でしょうか。それは「人」です。イスラエルの民を「神さまを礼拝する人」に整えること。エズラはこれを再建の要に据え、人の心の改革に着手したのです。実際、人の心に変革をもたらし、礼拝の民として整えることは容易ではありません。この難事業かつ大事業を成し遂げるために、神さまはエズラの上にご自分の御手を置かれました。神さまの御手によって、人の心が変えられ、礼拝の民とされるのです。今日礼拝をささげる一人一人の上に、神さまの御手が共にありますように。礼拝の民によってささげられる最高の礼拝となりますように。

2019年 8月18日(日)
《今週のみことば》
「まことに、まことに、あなたがたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」 ヨハネ3:5
人は新しく生まれ変わることができるのでしょうか。もし今の自分が変われるなら変わりたい、でもそんなことができるのだろうか。この問いにイエスさまは「水と御霊によって生まれるなら」、あなたは変われると。人は聖書の教えを勉強したから、心が揺さぶられるような経験をしたから、あるいは奇跡を経験したから、それによって新しく生まれ変わることができるのかと言えば、答えはNOです。聖書が言う新しさは人の努力によって得られる新しさではありません。上から(天から)与えられる新しさです。御霊が人の魂に触れ、人の内に宿ってくださるとき、人は新しく生まれ変わるのです。これを「キリストの救い」といい、「永遠のいのちを得る」というのです。すべての人に用意された救いを自分のものとして受け取ってください。

2019年 8月11日(日)
《今週のみことば》
「自分たちの敵からの安息を得た日、悲しみが喜びに、喪が祝いの日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り交わし、貧しい人々に贈り物をする日と定めるためであった。」 エステル9:22
神さまはイスラエルの民をハマンの悪事から守り、ユダヤ人撲滅計画を完全に打ち滅ぼしてくださいました。そして、ご自分の民であるユダヤ人たちを敵から守り、敵に対する勝利を与えてくださいました。その日、悲しみが喜びに、喪が祝いの日に変わったのです。「まことに 御怒りは束の間 いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)、「あなたは私のために 嘆きを踊りに変えてくださいました。私の粗布を解き 喜びをまとわせてくださいました。」(詩篇30:11)。この詩篇のように神さまが私たちに与えてくださるものは、いつも最後は喜びです。たとえ悲しみ、喪、涙、嘆きがあっても、最後は喜びです。今がどんな状況であっても、喜びの日が必ず来ます。それを信じて生きる人は幸いです。

2019年 8月 4日(日)
《今週のみことば》
「クセルクセス王は王妃エステルに言った。『そんなことをしようと心に企んでいる者は、いったいだれか。どこにいるのか。』エステルは言った。『迫害する者、敵とは、この悪人ハマンです。』」 エステル7:5,6
ハマンの悪事からユダヤ人を救うために、エステルは立ち上がりました。神さまはエステルに勇気と知恵を与え、見事にハマンの悪事を暴き、ユダヤ人撲滅計画を阻止したのです。大きな問題を前にして求められることは、冷静な判断です。パニックになってしまうと、正しく判断できなくなってしまいます。パニックから守られるために、冷静な心を神さまに祈り求めましょう。冷静な対応は示されたことを勇気をもって実行に移す行動力を生み出します。人が神さまを信じて行動するとき、神さまは愛する者を守ってくださいます。このときハマンはモルデカイを殺すために用意した柱に自分が付けられてしまいました。神さまは愛する者を守るだけでなく、悪事を暴き裁かれる方であることが分かります。人はどんなときにも神さまの前に謙虚になって歩まなければならないのです。

2019年 7月28日(日)
《今週のみことば》
「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」 エステル4:14
ペルシアのクセルクセス王の側近ハマンは、自分を拝まないモルデカイに怒りを燃やし、モルデカイの同族であるユダヤ人を撲滅する計画を立てます。このユダヤ人殺害計画を阻止するために、神さまはエステルをあらかじめ王妃の位に導かれたのです。私たちは目の前で起こっていることの意味がわからないときがあります。しかし、後になって「このときのためだったのか」と、過去の出来事と繋がることがあります。実はその繋がりの背後に神さまの見えざるご計画があるのです。だから、私たちは、今はいろいろ分からなくても、つぶやかず疑わず神さまに信頼して歩んでいくことが求められているのです。

2019年 7月21日(日)
《今週のみことば》
「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るためで、それも豊かに得るためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」 ヨハネ10:10,11
イエスさまは人間を羊にたとえてお話しをされました。羊は臆病で警戒心が強いです。また目が悪く迷いやすいです。さらにおとなしい反面頑固です。群れから離れて孤立するとストレスを感じパニックになってしまいます。そんな羊が安心安全に過ごすためには、羊飼いが必要なのです。私たち人間も羊のように弱い存在です。それゆえに、私たちを守り導いてくださる方が必要であり、聖書はそれがイエス・キリストであると言っています。キリストは私たちをご自分の囲い(救い)の中に招き、いのちを与え平安のうちに過ごすことができるようにしてくださいました。それだけでなく、与えられたいのちを豊かにしてくださるのです。一人一人がキリストの救いの中にあるいのちの豊かさを発見することができますようにお祈りします。

2019年 7月14日(日)
《今週のみことば》
「王はほかのどの女よりもエステルを愛した。…王は王冠を彼女の頭に置き、ワティシュの代わりに彼女を王妃とした。」 エステル2:17
エステル記には「神」ということばが出てきませんが、出来事の背後に神さまの導きがあることを感じます。紀元前480年頃のペルシア帝国の時代、クセルクセス王の目にかなったエステルはワティシュに代わって王妃になりました。ユダヤ人女性がペルシアの王妃になったことに特別な意味があるのでしょうか。歴史の一コマとして片づけられてもおかしくないのですが、その背後に神さまのご計画があるのです。エステルが王妃になったことは、後に起こるユダヤ人殺害計画からユダヤ人を救うための神さまの備えだったのです。私たちは今目の前で起こっている出来事の意味を知り得ないかもしれません。しかしその背後にはすべてに意味をもって働いておられる神さまがいて、ご計画をもって私たちの人生に働きかけておられるのです。目の前の出来事に振り回されないで、背後で働いておられる神さまのご計画に思いを向けて歩みましょう。

2019年 7月 7日(日)
《今週のみことば》
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」 ヨハネ9:3
本日は水谷潔先生により「議論対象から愛の対象へ」と題して礼拝メッセージをいただきました。生まれつき目の見えない人に向かって弟子たちは「この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」と問いました。そのイエスさまの答えが冒頭のみことばです。議論の対象として犯人捜し(原因特定)をしても解決にはなりません。必要なのは愛の対象として寄り添うことです。どんな人にもその人にしか表せない神さまのすばらしさがあるからです。昨今話題に上ることが多い発達障がいやLGBT(性的少数者)などについても触れてくださり、排除ではなく愛すべき対象として受け入れることの大切さが語られました。多様化の時代にあって、「教会にいていいんだよ」「生きていていいんだよ」と門戸を開いて、皆さんをお迎えしたいと思います。罪人をも愛されたキリストの愛が教会にはあるのですから。

2019年 6月30日(日)
《今週のみことば》
「イスラエルの子ら、すなわち、祭司、レビ人、そのほかの捕囚から帰って来た人たちは、喜びをもってこの神の宮の奉献式を祝った。」 エズラ6:16
困難を共にして来た者たちには強い結束が生まれます。バビロンへ捕囚⇒バビロンから解放⇒エルサレム神殿の再建開始⇒神殿の基礎完成⇒妨害による中断⇒失望落胆の十数年間⇒ハガイによる工事再開への促し⇒再建工事に再び着手⇒工事へのクレーム⇒工事の正当性を証明⇒エルサレム神殿完成(第二神殿とも言う)。これが捕囚(BC586年)から第二神殿完成(BC516年)までのイスラエルの民の大まかな流れです。完成した神殿の奉献式はどんなに大きな喜びだったでしょうか。そこには、困難を共にし乗り越えて来た者たちの喜びがあり、過去の過ちに対する主のあわれみへの感謝が溢れています。今日の礼拝は上半期の締め括りの礼拝です。この半年間を振り返り、困難を乗り越えてきた愛兄姉の信仰とそこに注がれた主のあわれみに深く感謝をささげます。

2019年 6月23日(日)
《今週のみことば》
「わたしはこの宮を栄光で満たす。この宮のこれから後の栄光は先のものにまさる。この場所にわたしは平和を与える。」 ハガイ2:7-9
イスラエルの民はバビロン捕囚から帰還し、崩れた神殿の基礎を据えるのですが、その後敵の迫害によって工事は約16年間中断させられてしまいます。その間に民の神殿再建の士気は萎え、もっぱら自分の生活に明け暮れるようになってしまったのです。そこに神さまは預言者ハガイを遣わし、これから建てられる神殿は以前のソロモンの神殿にもまさるものだと約束してくださり、神殿再建に乗り出すように励まされたのです。この神さまの励ましを私たちの人生にも当てはめたいと思います。きょう神さまを信じて歩み出すなら、これから後の歩みは前にもまさる祝福の中を歩むことができるのです。昨日よりも今日、今日よりも明日、神さまの恵みは常に前に前にと広がり、尽きることのない泉となって私たちを満たし続けます。後の栄光を手にする鍵は、きょう信仰に立って歩み出すか否かにかかっているのです。

2019年 6月16日(日)
《今週のみことば》
「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。」 エペソ6:4
6月第三日曜日は父の日です。私たちの教会では母の日同様に父の日も対象となる方々の祝福を願い礼拝をささげています。冒頭のみことばから父親の務めとは何かを考えました。一つは、父親は子どもの人格を認め尊重しなければならないこと。父親の権力を振りかざし子どもを支配してはいけないと戒められています。二つ目は、父親は子どもに神さまのことを教えなければいけません。神さまとはどんな方なのか、神さまは何を願い何をお嫌いになるのか、神さまは私たちをどのように見ておられるのかなど、神さまのことを教えるのは父親の務めであると言っています。そのためには、父親自身が神さまのことを知っていなければなりません。父親が神さまから教えられやすい人になっていなければならないのです。父親が神さまの前に遜って教えられやすい人であることが、子どもへの一番の教育であり訓戒なのです。

2019年 6月 9日(日)
《今週のみことば》
「私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」 ローマ8:26
今日は聖霊降臨を記念するペンテコステの礼拝です。聖霊なる神さまが共におられることを感じて生きる幸いに目を向けました。人は自分が弱さを抱えたとき、一人でそれを抱え込むことは辛いです。元気で何でも思い通りにできる時は良いのですが、いつかはそれができなくなっていきます。その時に知って欲しい方が、聖霊(=御霊)なる神さまの存在です。私たちが祈ることさえできないほどの弱さや痛みを抱えるとき、聖霊は私たちと一緒にうめき、苦悩を神の下に届け、とりなしてくださるのです。そこには、「あなたは一人ではない。わたしがともにいる」というメッセージが込められています。聖霊はいつでも、どこでも信じる者の傍にいてくださる方ですから、弱さを抱える中で「聖霊よ」と呼びかけてみましょう。聖霊はとりなしと慰めをもって近づいてくださいますから。

2019年 6月 2日(日)
《今週のみことば》
「こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシアの王ダレイオスの治世の第二年まで中止されたままになった。」 エズラ4:24
バビロン捕囚から解かれたイスラエルの民はエルサレムで神殿再建に取りかかり、神殿の礎を据えるところまでは順調にきました。しかし、ここにきて神殿再建を妨害する「敵」が現れました。そして、敵によって再建工事は16年もの間中断してしまいました。どんな世界にも反対者がいるものですが、そのような人たちがいることは、最初から織り込み済みとして物事にあたる必要があります。反対者によって、せっかくの計画が中止や中断することがあっても、腐ったり投げ出したりしないで忍耐強く再開の時を待つ人になりたいと思います。待つ間は何もしないのではなく、すべてを最善に導かれる神さまに委ねて祈る時間にしたらいかがでしょうか。試練を通して神さまへの祈りと期待が生まれるなら、試練にも意味があると言えるのではないでしょうか。

2019年 5月26日(日)
《今週のみことば》
「『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに』と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。」 エズラ3:11
「バビロン捕囚から解かれた民は、エルサレムに集まり崩れた神殿の再建工事に着手しました。神殿の基礎が据えられたときです。民は捕囚の苦しみとそこに注がれた神さまのあわれみを思い返し、感極まって大声で心から神さまに感謝の賛美をささげました。神さまのいつくしみは本当に深い。その恵みはとこしえまでも自分たちに注がれていると。今日、私たちがささげた礼拝は、まさしくこのときのイスラエルの民と同じです。先週それぞれに色々なことがあったでしょう。大変な中を通られた方もいると思います。それでも、今日の礼拝に集えたことを心から感謝して、賛美をささげ、みことばに耳を傾けました。先週がそうであったように、今週も主のいつくしみと尽きることのない恵みに拠り頼んで歩みます。

2019年 5月19日(日)
《今週のみことば》
「捕囚の民で、その捕囚の身から解かれてエルサレムとユダに上り、それぞれ自分の町に帰ったこの州の人々は次のとおりである。」 エズラ2:1
バビロン捕囚からエルサレムに帰還することができた人たちの喜びはひとしおでした。その喜びは捕囚から解かれた喜びであり、かつての自分たちの町に戻ることができた喜びです。人は様々なものに縛られて、不自由な身となって生きています。ちょうどイスラエルがバビロン捕囚の身となったように。イエスさまはその束縛から私たちを解放し、自由を与えてくださるお方です。特に罪の束縛から解いてくださるために、私たちのところに来てくださいました。イエスさまによって、捕らわれの身から解かれ、本来の自分の姿を取り戻して生きて行きたいですね。解かれた喜びが一人一人に注がれますようにお祈りします。

2019年 5月12日(日)
《今週のみことば》
「彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。」 Ⅰサムエル2:19
今日は母の日です。子として母への感謝を表し、母として子のために祈る日でありますように。母は子のためにいつも祈り、思いを向けています。少年サムエルと母ハンナの関係もそうで、ハンナは毎年少年サムエルのために上着作り、宮に上る時に持参したのです。上着を届けるたびに子どもの成長を見ることができるのは何と幸いでしょう。子どもの成長を喜ぶ母親の姿が目に浮かびます。母の思いの中に子どもは守られていることを思い母に感謝します。また母はいつも子どもの祝福を願い祈る者です。母の祈りが実を結びますように。神さまが母と子の関係を祝してくださるように祈ります。

2019年 5月 5日(日)
《今週のみことば》
「エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。」 エズラ1:1
ペルシア帝国のキュロス王は、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民に故国に帰ってもよいという命令を出しました。これによりイスラエルの民は捕囚から解かれてエルサレムへと帰還します。実はこのキュロス王の寛大な政策の背後に、神さまの深いご計画がありました。エズラよりもずっと前に、神さまはイスラエルの捕囚からの解放を約束しておられ、それを実現するために異邦の王であるキュロスの霊を奮い立たせてくださったのです。神さまによって用いられたキュロス王は、後の救い主イエスさまを指し示すひな型です。罪の束縛から解いてくださるイエスさまの救いが一人一人に届けられますようにお祈りします。

2019年 4月28日(日)
《今週のみことば》
「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 ルカ22:32
十字架を前にしてイエスさまは、ペテロがご自分を裏切ることを予告されました。そして事実、ペテロはイエスさまを3回否んでしまいました。ペテロは自分の不甲斐なさに打ちのめされ、失望と自信喪失の中、信仰まで失ってもおかしくない状況に追い込まれましたが、冒頭のみことばにあるようにイエスさまのとりなしの祈りによって支えられたのです。それだけではなく、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやるように、新たな使命を与えてくださいました。イエスさまは私たちの過去の失敗、挫折、失望、落胆から立ち直れるように祈っていてくださる方で、そのような弱い者であるにもかかわらず、兄弟を力づけるという新たな使命を与えてくださる方です。私はペテロです。ペテロのように本当に弱い者です。そんな者のために祈り、守り、使命を与えてくださるイエスさまに感謝します。

2019年 4月21日(日)
《今週のみことば》
「イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます。」 マタイ28:7
イースターおめでとうございます。今日はキリストの復活をお祝いする復活祭でした。復活された主はガリラヤで弟子たちにご自分を現わされました。どうしてガリラヤなのでしょうか。そこには2つの意味があると思います。ガリラヤはイエスさまが弟子たちを召された場所です。ガリラヤで弟子たちに会うことで「人間をとる漁師にしてあげよう」という召命の原点に彼らを導かれたのではないでしょうか。そしてもう一つの意味は、主はガリラヤで弟子たちに「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)という主の宣教命令をお与えになりました。弟子たちはこの命令を携えて世に出て行ったのです。ガリラヤは自分の救いや召命を確認する場であり、使命に向かって出発する場でした。今、私たちにとってのガリラヤは毎週の礼拝の場です。礼拝ごとに自分の救いと召命を確認し、復活の主とともに新しい週の歩みに踏み出しましょう。

2019年 4月14日(日)
《今週のみことば》
「『あなたがたは…わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。』彼らは『できます』と言った。」 マタイ20:22
イエスさまは弟子たちに「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」と聞かれました。弟子たちは「できます」と力強く返事をしますが、イエスさまがユダヤ人当局に逮捕されると弟子たちはみな逃げてしまいました。ペテロも死んでもイエスさまを裏切らないと断言したにもかかわらず、イエスさまが尋問を受ける場面に居合わせ、「そんな人は知らない」と3度もイエスさまを拒みました。悲しいかな、これが弟子たちの真の姿であり、私自身の姿なのです。もし今、目の前にイエスさまが杯(十字架)を示されたら、私は飲めるだろうか…。私もまた一人のペテロであることを示されます。受難週にあたり、私は杯を飲めない自分に涙する者です。しかし、その涙をイエスさまは尊い涙として受け取ってくださると信じています。

2019年 4月 7日(日)
《今週のみことば》
「『あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。」 マタイ22:37-39
神さまが私たちに何を願っておられるのか、それをひと言でまとめたのが上記のみことばです。神さまを愛して生きることと人を愛して生きること、この両方が大切なのです。人を愛するというのはわかりますが、神さまを愛するということは日本人にはわかりにくいと思います。愛するということばを大切にすると置き換えてみると、少しはわかるかもしれません。神さまが私たちに願っておられる思いを大切にして、その願いに答えようとして生きることが神さまを愛するということです。同じように人を愛するというときも、人の思いを自分と同じように大切にすることです。神さまと人を大切に思い生きることで、人は幸せな生涯を送ることができるのです。

2019年 3月31日(日)
《今週のみことば》
「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。」 詩篇51:17
砕かれた霊、砕かれた心とは、何を指しているのでしょうか。詩篇51篇はイスラエルの第二代目の王ダビデが大きな罪を犯したあと、罪を悔い改めて神さまのあわれみと赦しを求めた時の心境を謳った詩です。人は自分が間違ったことをしても、なかなか謝れないものです。この世で一番言うのが難しいことばは「ごめんなさい」ということばですが、自分の罪を認めて心から「ごめんなさい」と言える人は、心の砕かれた人です。神さまはそのような人を愛してくださるのです
2019年 3月24日(日)
《今週のみことば》
「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」 詩篇32:1,2
人にとって本当の幸いとは何でしょうか。富や財を手にすることでしょうか。聖書は罪や咎を赦された者であることが一番幸せだと言います。しかし、何と人はいろいろな点で過ちを犯してしまう罪深いものなのでしょうか。罪や咎の束縛から解放されることなどあるのだろうかと思うほどに、人の罪は深いのです。ところが神さまは、そのような人の罪をキリストの十字架によって赦し、罪をおおってくださいました。キリストの十字架によって、人の罪は赦されたのです。それゆえに、日々赦された恵みを感謝して生きていくことができますようにお祈りします。

2019年 3月17日(日)
《今週のみことば》
「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」 コロサイ3:14
私たちの人生は健康、知識、富によって豊かにされます。しかし、それだけでは本当の豊かさを享受することはできません。聖書は「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、…互いに赦し合いなさい。」と勧めていて、これらの徳目が加えられることで、真の豊かさを得ることができます。否、仮に前者に欠けを覚えても、後者が充実しているならそれだけで十分と言えるでしょう。慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦しを一つにまとめているのが「愛」です。愛を着て真の豊かさを求めて行きましょう。

2019年 3月10日(日)
《今週のみことば》
「私の願いは…生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」 ピリピ1:20,21
あなたは何のために生きるのですか。人生の目標は何ですかと聞かれて、即答できるでしょうか。パウロは「私の身によってキリストがあがめられること」と答えています。このパウロの人生目標を私たちも同じように告白したいと思います。ここで言う「あがめられるように」とは拡大するという意味があります。パウロは自分が拡大鏡になって、キリストのことをもっと知ってもらおうと思いました。多くの人にキリストのことを知ってほしいので、私もキリストの拡大鏡になって生きていきたいです。
2019年 3月 3日(日)
《今週のみことば》
「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」 使徒20:32
このみことばは、パウロがエペソの長老たちにお別れの説教の中で語ったものです。顔と顔を合わせて語ることはこれが最後というとき、パウロは神さまのみことばの大切さを伝えています。神さまのみことばは私たちの生き方を変え、霊的に成長させ、御国へと導く力となって働きます。みことばが人を成長させてくださることを自分自身の体験として持てるように、みことばの前に真実に歩みたいと思います。
2019年 2月24日(日)
《今週のみことば》
「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。」 ヨシュア1:2
どの世界にも後継者問題があります。どんなに良いものでも後継者がいなければ、その代で終わってしまいます。教会も同じで地上に教会が立ち続けるためには、神さまのことを伝える働き人が必要です。モーセからヨシュアに上手にバトンが渡されたように、今の時代から次の時代にスムーズにバトンを渡すことができるように、そのために働き人が起こされるようにお祈りします。ヨシュアを立ててくださった神さまは、私たちの教会にも次代にふさわしいリーダーを立ててくださると信じています。

2019年 2月17日(日)
《今週のみことば》
「わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。」 ヨハネ17:23
愛って何でしょうか。聖書は「神は愛です」と神さまご自身が「愛」であると言っています。愛である父なる神さまはご自分の愛で御子イエスさまを愛されました。そして御子イエスさまは私たちを愛してくださいました。ここに、御父と御子と私たちという関係が作られ、その関係を繋ぎ合わせているのが「愛」です。三者が互いに愛し合うことで愛の完成形が作られ、クリスチャンは愛の完成形の一翼を担っているのです。神さまを信じる人が増えることで、愛の完成形はどんどん大きくなっていきます。神さまの愛で互いに愛し合う関係を広げて行きましょう。

2019年 2月10日(日)
《今週のみことば》
「それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。」 ルカ5:29
レビ(マタイのこと)はイエスさまのために盛大な食事のもてなしをしました。彼は取税人で人々から嫌われていた職業に就いていましたが、イエスさまから「わたしについて来なさい」と声をかけられ、弟子として召されたのです。食事のもてなしは、イエスさまに目を留めてもらい弟子として召された喜びにありました。クリスチャンはレビと同じようにイエスさまに目を留めていただいた者です。その喜びをみんなで分け合いたいと思います。喜びを分け合うことがクリスチャンの元気の源で、そのことが福音の拡大に繋がるのです。

2019年 2月 3日(日)
《今週のみことば》
「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」 ヨハネ4:29
あるとき、イエスさまは一人のサマリヤの女性の過去をすべて言い当てました。驚いた女性は、町の人たちにイエスさまのことを話しました。すると、町の人たちはイエスさまのところに出向き直接話を聞いて、なんとイエスさまを信じてしまったのです。一人の女性の証が多くの人の救いのために用いられました。証には人の心に届く力があります。なぜなら、自分が体験した生の声だからです。イエスさまは人々の救いのために私たちの証を用いてくださる方です。恐れず自分になされた救いの御業を証しましょう。その証が人々の救いのために用いられることを祈っています。

2019年 1月27日(日)
《今週のみことば》
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」 Ⅰテサロニケ5:16-18
喜び、祈り、感謝の生活を求めるとき、「いつも、絶えず、すべて」ということばが添えられています。このことばが示す意味は、私たちの意識の中にイエスさまをしっかり据えるようにということではないでしょうか。教会に来ている時だけがクリスチャンではなく、どこにいてもクリスチャンはクリスチャンです。クリスチャンとはいつでも、どこでも、どんなときでもイエスさまのことを思う人のことを言います。イエスさまご自身も私たちに、いつでも、どこでも、どんなときでも「わたしと一緒にいて欲しい」と願っておられます。私たちとイエスさまは一つです。それを深める一年でありたいです。

2019年 1月20日(日)
《今週のみことば》
「すべてのことにおいて感謝しなさい。」 Ⅰテサロニケ5:18
今年の教会目標の3番目の柱は感謝することです。感謝することは心も身体も健やかにします。一つでも多く感謝する生活を送りたいです。しかしそう願いながらも、なかなか感謝を口にすることが少なく反省することしきりです。なぜ感謝しないのでしょうか。それは当然とか当たり前という意識があるからです。そこで周りをよく見渡してみると、実は当たり前と言えるものは一つもないことに気づきます。当たり前ではなく、すべては神さまが備えてくださった恵みです。これからはもっと、神さまと人々に感謝しなければと思わされています。

2019年 1月13日(日)
《今週のみことば》
「絶えず祈りなさい。」 Ⅰテサロニケ5:17
今年の教会目標「喜び・祈り・感謝の生活」の祈りについて思い巡らしました。パウロが祈りの生活を勧める理由は、彼自身がいつもテサロニケ教会のために祈っていたからです。パウロは迫害によって、生まれたばかりのテサロニケ教会を後にしなければならず、いつも心配して祈っていました。祈りは相手を思う思いに比例します。人を思う思いを祈りに変えて、互いに祈り合うことで真の交わりが生まれます。この年、兄弟姉妹が祈りによって一つとされるように、互いを思う思いが祈りの世界で結び合わされるように祈りのすばらしさを味わう一年としましょう。

2019年 1月 6日(日)
《今週のみことば》
「いつも喜んでいなさい。」 Ⅰテサロニケ5:16
本日は2019年最初の礼拝をささげました。今年私たちの教会に与えられた年間聖句はⅠテサロニケ5:16-18です。「喜び・祈り・感謝の生活」を目標に掲げ、歩み出しました。第一の柱である喜びの生活について、クリスチャンライフに喜びがあふれる一年でありたいと願います。喜びには外的な喜びと内的な喜びがあります。一緒に楽しい時間を過ごす喜びと、イエスさまが内にいてくださる喜びの両面を共有して、クリスチャンライフを楽しみましょう。楽しみを分かつところに人も引き寄せられてきます。自分が楽しいと思うことで、神さまのお役に立てたら感謝です。
